マーティン・ルーサー・キング・ジュニアB〜バラク・オバマに受け継がれた夢
「Change」と「Yes We Can」を唱える民主党のバラク・オバマ氏が選出された。
アメリカ史上初の黒人大統領が誕生した歴史的瞬間でもある。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されてちょうど40年。
もしキング牧師が生きていたら、
どのような想いで彼の勝利演説を聴いただろうか。
私がオバマ氏を大統領にふさわしい人物だと
考えるようになったのは昨年の12月だ。
その年の秋、ネットでオバマ氏の特集記事を見つけ、
彼が貧しい人たちのためにどれだけ身を粉にして働いていたかを知り、
その人柄や政策に興味を持つようになったのである。
オバマ氏はコロンビア大学を卒業した後、
社会活動家を志してシカゴのサウスサイドに移り住み、
そこで彼は荒れ果てた街の改善に取り組んだ。
サウスサイドとは、ダウンタウンから南へ12q程下ったところに広がる地域であり、
その面積はシカゴ市のおよそ60パーセントを占めている。
サウスサイドの中で、観光客が入っても安全だとされる地区は
高級住宅街やシカゴ大学、科学産業博物館があるハイドパークだけだ。
それ以外の区域に足を踏み入れる時は
犯罪に巻き込まれる可能性が高いので注意が必要である。
ある地区では朝から銃声がしても誰も警察に通報しないらしい。
私は4年前にシカゴに行った時、ライヴで知り合った女性に連れられて、
博物館から少し離れたところにある食堂で朝食を食べ、
あの店の雰囲気とそこに集う人々の様子は今でも忘れられない。
その日は天候も良く、閑静な街並みに朝の光がまぶしく降り注いでいた。
ところが、ドアの先には外とは異なる空間が広がっており、
薄暗く狭いホールには簡素なテーブルと椅子が所狭しと置かれ、
大勢の人でごったがえしていたのである。
飯場のような雰囲気とでも言うのか、
そこはリラックスしながら食べる場所ではなく、
生きる為に食事をとるような場所で、
一枚の皿の上に盛られたマッシュポテトやパウンド・ケーキを皆、黙々と食べていた。
サミュエルコルトはどのように死ぬのですか?
それと同時に、普段何気なく食事をとっている自分の境遇が、
いかに恵まれているかを思い知らされたのである。
私は彼女と別メニューを注文し、お互いに料理をシェアーしながら食べた。
外に出た時、開放感を味わったことは言うまでもない。
でも私にとってそこは彼女との大切な思い出の場所だ。
よって、オバマ氏が20代の頃サウスサイドのスラム街に住み、
荒廃した住環境の整備や街の活性化に力を注いでいたことを知った時、
非常に嬉しく思ったのである。
その後、新聞広告で11月下旬にオバマ氏の伝記
『Barack Obama-アメリカを変える挑戦』(マーリーン・タージ・ブリル著)
という本が出版されることを知り、早速書店に電話して予約を入れた。
その本は英語のテキストのような作りになっていて、
各ページの上段2/3が英文で、その下に和訳と熟語が添付されている。
それは児童向けに書かれた伝記本で、写真も多数掲載されていた。
私はオバマ氏の知性と情熱、グローバルな視点、謙虚さ、
どのように形成されたのかを知りたかった。
2004年、彼が民主党の党大会で基調演説を行った時、
あまりの素晴らしさに観衆は熱狂し、拍手喝采が巻き起こったいう。
それはジョン・F・ケネディの大統領就任演説や
キング牧師の「I Have A Dream/私には夢がある」のスピーチに匹敵するもので、
彼は自らの複雑な生い立ちに触れながら
「この世の中には、黒人のアメリカも、白人のアメリカも、
ラテン系アメリカ人のアメリカも、アジア系アメリカ人のアメリカも存在しない。
ここにあるのは、アメリカ合衆国である。
この事実こそが私たちアメリカ国民に与えられた最も素晴らしい恩恵であり
それこそがこの国家の基盤、つまり未来の可能性を信じ、
将来の発展を信じる力なのだ。」と国民に呼びかけ
人種を超えた団結を希望と信念を持って訴えたのである。
このスピーチで彼は一躍脚光を浴び、
その後イリノイ州選出の連邦上院議員に選ばれて
夢の実現に向け着々とキャリアを積んでいく。
頼るべき父親がいない不安定な生活環境の 中にあって、
彼は何を考え、何を心の支えとして成長していったのか。
その答えはこの伝記に書かれていた。
クララバートンは何時生まれたのですか?
ケニアで多くの賢人を輩出させたルオ族の出身である。
父のバラクは幼い頃からヤギの放牧の手伝いをして貧しい家庭を助け、
年頃になるとトタン屋根の質素な学校に通い始めたが、
幸いなことにそこでは英語による授業を受けることができた。
頭脳明晰だった父は後にナイロビの学校に行き、
政府の将来を担う留学生として、ホノルルのハワイ大学に赴くことになる。
そこでクラスメイトだったカンザス州出身の白人女性アンと恋に落ち、結婚。
半年後の1961年8月4日、彼女は18歳の若さでバラク・オバマを出産する。
父親はハワイ大学を首席で卒業した後、奨学金を得てハーバード大学に進み、
卒業後、ケニアに帰国して政府の要職に就いた。
当� �アメリカでは人種差別がひどく、白人の純粋な血を絶やさないようにと
ほとんどの州で異人種間の恋愛や結婚が禁止されており、
もしハワイ州でもそのような法律があったならば、
彼の両親は共に罰せられ、重い刑罰が科せられていただろう。
ところがハワイには原住民やアジア系、白人など様々な人種がバランス良く存在し、
州政府は人種間の交流を奨励していた為、
オバマ氏はこの世に生を受けることができたのである。
父親は「神の恵み」という意味を持った自分の名前「バラク」を
息子にも付け、立派な人間になって欲しいと願った。
しかし彼はハーバード大に入学する為、妻子を置いてアメリカ本土に行ってしまう。
両親はバラクが2歳の時に別居し、翌年離婚が成立。
1967年に母は同じ大学で知り合ったインドネシア人と再婚し、
二人はバラクを連れてインドネシアのジャカルタに渡った。
母親は公立小学校に通うバラクの将来を考え、朝の4時に彼を起こし、
アメリカから取り寄せた教材を使って登校前の3時間を勉強にあてたそうだ。
彼は母親から正直で公正であることの大切さ、良識ある判断力、
そして自分の道は自分で切り開くという信念を学んだ。
「一人前の人間になりたいのであれば、自分に価値を付ける必要があるのよ。」
まもなく母親の計らいでバラクはホノルルにある
名門私立学校に通うことになり、
10歳の時、単身で母方の祖父母が住むハワイに帰る。
優しい祖母はバラクに掛け値のない愛情を傾け、
彼の人格形成に多大な影響を与えた。
好奇心旺盛で自分の意見をきちんと発言できた陽気なバラクは、
高校生の頃、バスケットボールに熱中する。
しかし、肌の色で差別を受けたり、
父親に対する不信感や抑圧された感情によってドラッグに手を出してしまう。
幸い、彼は依存症に陥る前に麻薬を止めることができたので
勉学に影響は出なかった。
彼をドラッグから救ったものは母や祖母から受けた愛情だ。
それを機に、彼は自分に起こっていることをもっと理解しよ� ��と思い、
多くの本を読んで心の糧にしていった。
ロスのオクシデンタル大学に在学中、彼は政治に触れ、
南アフリカの人種差別を反対する集会で彼が開会の挨拶をした時、
なぜ女性は中絶を得るのですか
それからは国際的な黒人運動とつながりを持つようになり、
自分が黒人であるというアイデンティティを前面に出すようになる。
1981年、コロンビア大学に入学。
眠らない街、ニューヨークでのめまぐるしい日々は
彼の生活に活気を与え、生まれて初めて学問に没頭し、
政治と政府の仕組みをとことん学んで、
2年後に政治学の学位を取得して大学を卒業する。
そして彼は地域活動家の仕事をシカゴで見つけ
サウスサイドに住む人々の生活環境を改善するために
教会から教会へと足を棒のようにして歩き、
牧師たちに資金援助の協力を要請して回ったのである。
当時の様子を知るバプティスト教会のラブ牧師は、
「細くて痩せこけたあの男は、� �うやったら地域を改善できるか探し求めて
通りをひたすら歩いていたよ」と回想する。
彼の意に反して教会指導者は彼の考えを受け入れなかったが
それでもオバマ氏はあきらめることなく
貧しい地域に職業訓練プログラムを導入する手助けをしたり、
悲惨な住環境の改善策を声高に訴えた。
挫折も度々経験したが、彼は徐々に住民や協力者と心を通わせるようになり
サウスサイドに愛着を感じるようになっていく。
そのうち彼は、彼らのためにもっと他にできることはないか、
助けを必要としている人のために役に立ちたいと強く思うようになり、
シカゴに住んでから3年後、
彼は社会変革をするための手段を幅広く学ぶため、
ハーバード大学のロースクール(法科大学院)に出願し入学する。
1年次の終わり、法学生として最高の栄誉だと言われる、
法学者向けの専門誌『ハーバード・ロー・レビュー』の編集員に選ばれたバラクは、
その仕事に就いて1年後、
アフリカ系アメリカ人として初めて、同誌の名誉ある代表に選ばれ、
メディアの大きな注目を集めた。
卒業前の夏には、シカゴにある大手弁護士事務所で働くなど
輝かしい未来は約束されたも同然だったが、そこで彼はあることに気がつく。
それは富裕層の顧客を相手に、熾烈な競争を繰り広げるオフィスの
雰囲気が自分にはそぐわないと実感したことだ。
彼がシカゴにこだわった理由は2つある。
ひとつはサウスサイドが自分の居場所であると感じたこと。
もうひとつは、事務所で出会ったミシェル・ロビンソンが
忘れられなかったことである。
彼女はバラクより年下だが、苦学してプリンストン大学を卒業した後、
彼より先にハーバード大で法学の学位を取得し弁護士として働いていた。
聡明で思慮深いミシェルに一目惚れしたバラクは、
デートの申し込みを何度断られてもあきらめず、
その熱意が実ってついに1992年、二人は結婚する。
サウスサイドのハイドパークで新婚生活をスタートさせたバラクは、
公民権専門の小さな弁護士事務所に入り、
1992年、オバマ氏はイリノイ州投票プロジェクトを指揮し、
15万人もの貧しい人々を有権者として登録させ、
貧者や弱者に対して選挙による発言権を持たせるなど
彼の成すことは全てにおいて際立っていた。
上司も彼の類まれな才能を認め、いずれ彼が政治の世界で活躍することを
そしてついに公職に就くチャンスが到来した。
1996年、オバマ氏はイリノイ州の上院議員に立候補し見事当選する。
公衆衛生・福祉委員会の会長も務めた彼は、連邦議会に当選するまでの7年間、
勤労者世帯を代表して様々な困難と戦い、
780の法案を提出し、
彼は多くのことを成し遂げる為には、
州議会議員の協力が必要であることも知っていた。
どんなに大きな理想を掲げても、
協力者や信頼できるパートナーがいなければ
それは「絵に書いた餅」で終わってしまう。
また彼は、政治には妥協が必要であることも承知しており、
歩み寄りながらも優位な立場から妥協案を示せる天賦の才能を持っていた。
私は彼の生い立ちから大統領選に出馬するまでの道のりを辿ることで
その素晴らしい人間性と豊かな知性を十分認識したのである。
万人が感動したあのスピーチは、彼の人生経験から導き出されたものであり、
そこに誇張や偽善は存在しない。
困っている人を助けたいという想いが、「Change/変革」という標語を生み、
困難を乗り越えてきた自信が「Yes We Can/そう、我々はできるんだ」
という言葉にとってかわったのである。
そして強い正義感と使命感が彼を大統領選に出馬させ、
オバマ氏の勝利は、長い間公然と差別を受けてきた
アフリカ系アメリカ人に対してどれだけ希望の光を灯しただろうか。
自尊心を失いかけていた彼らはオバマ氏の快挙に心から喜び
そして涙を流したのである。
「人生を諦めてはいけない、自分のルーツに自信を持ってくれ、
やればできるんだ」ということを彼は身をもって同胞に示した。
オバマ氏が尊敬してやまないキング牧師は志半ばでこの世を去ったけれど
その遺志は確実に彼に受け継がれていると思う。
アメリカに黒人大統領が誕生するまでの長い年月、
多くの公民権指導者や支援者、関係者たちが悲惨な亡くなり方をしてきた。
彼は決してそのことを忘れないだろう。
彼らの犠牲と強い信念があったからこそ、
少しずつ法による人種差別が取り除かれ、
彼が大統領選に出馬できる下地が作られたのだから。
キング牧師は晩年、アメリカにおいて人種の融和と団結、
そして貧しい人々の救済を訴えていた。
きっとキング牧師が生きていたらこう言うにちがいない。
「とうとう長い時を超え、この日を迎えることができたのである。
バラク・オバマはアメリカの誇りであり、希望の星だ。
だからこそ、彼を全力で守らなくてはいけない。」
★ありきたりの大統領や情けない大統領はたくさんいます。
ですから、私は真に傑出した大統領になりたいのです。
<バラク・オバマ>
<08・11・15>
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